山尾三省 生誕70年祭
「アニミズムという希望ーあなたの詩が、言葉が、世界の宝となる」
に参加して

三省さんは70歳になった。

ほったさとこ
(写真:増田典子)


会場風景

 生前の山尾三省さんと1回だけお話しをした。三省さんの詩集『親和力』(くだかけ社)のポエトリーリーディング。2001年の1月27日のことだ。顧問をしていた東京自由大学の講座で、三省さんは早稲田まで足を運んでいた。三省さんは末期の胃ガンを受け入れ、連載中の雑誌などにもそのことを書いていた頃。生身で会える最後のチャンスかも知れないと、つき合っていたきこり(いまは夫)と出掛けた。わたしは恋をして浮かれていて、三省さんと少し2人っきりでお話をした時に「いまきこりとつき合っているんです。」と告白した。三省さんは「よかったですね。」とうれしそうな顔で言ってくれた。夜の打ち上げでも三省さんはにこにこしていらした。その夏の8月28日、三省さんは3つの遺言を残し、屋久島の白川山にある自宅で亡くなられた。
 三省さんは1938年10月11日に東京の神田で生まれた。今年(2008)のお誕生日、御茶ノ水で「アニミズムという希望ーあなたの詩が、言葉が、世界の宝となる」という生誕70年祭が催された。立ち見が出るほどの人が集まった。深い縁のあった人、これから縁の生まれる人、若い人、同世代の人、いろんな人がいた。
 きこりはつき合っていた頃から、富士山の熔岩樹型に三省さんと一緒に入った話などをしてくれていた。きこりのお店であるプラサード書店の“プラサード”も三省さんの選んだ言葉。きこりの人生に大きな柱を建ててくれた一人だ。生誕70年祭のリレートークにきこりは呼ばれ、随分前から緊張して、丁寧に準備を整えていた。
 生誕70年祭の当日、楽屋に入るとボブさんやナーガさんたちが座っていて、ナナオがさあ、とか、ポンがさあって話をしていた。三省さんの本を出版してきた人たちも揃っていて、わたしはこっそり感動した。
 プログラムは午後2時から夜の8時まで、20人くらいの人が登場する。多いよなあ。内容の濃さは始まる前から折り紙付き。
 第1部のリレートーク「三省と私」では、長本光男(八百屋)、加藤行衞(僧侶)、槇田きこり(御師)、渡辺眸(写真家)、兵頭昌明(山尾三省記念会代表)、宮内喜美子(詩人、宮内勝典の妻)、花崎皋平(哲学者)が1人ずつ話をした。三省さんを、ある人はさみしい人だといい、別の人は誠実な人だといい、そして屋久島の人たちに愛された人だと言った。

リレートーク

 第2部のシンポジウムは「アニミズムという希望」。今福龍太(文化人類学者)、鎌田東二(宗教学者)、田口ランディ(作家)、長屋のり子(詩人、三省さんの妹)がゲストで司会は三島悟(元編集者)。1999年夏の琉球大学での集中講義が『アニミズムという希望〜講演録・琉球大学の五日間』(野草社)という本にまとまり、生誕70年祭のタイトルに選ばれ、シンポジウムでのテーマとなった。ランディさんはこの本こそが遺言、これからの私たちのよりどころとなるテキストだと言った。
 三省さんは、学生の頃、実験的な詩や文章を書いていたそうだ。70年代の日本の難解な詩の世界から三省さんは確信的に抜け出した。部族の日常から、五日市での古民家暮らしから、屋久島へ移住し、森の中で、畑に立って、火を真ん中において、言葉が身体から生まれてきた。そのライン上には、寺山修司やジャン=マリー・ギュスタヴ・ル・クレジオ、部族の時からのつきあいのゲーリー・スナイダーがいて、同じ時代を生き、アニミズムを見ている。仏教の悟りや初期のギリシャ哲学とも通ずると、アカデミックに話が続く。
 この日のことを本に出来そうだと聞いたので楽しみ。ひとつ、はっきりしているのは、わたしはこのシンポジウムで三省さんにちゃんと出会ったこと。わたしも森に入っていこうって思った。
会場入り口 第3部は「三省の詩を歌う」。松井智恵、じゅごん、山本純、眞理ヨシコ、ナーガ(長沢哲夫)、内田ボブ、李政美。ナーガさんの詩「とも 三省」を聞いた。最後は李政美さんの「祈り」。三省さんの祈りが政美さんの声と交わって光になった。「祈り」を歌わせてほしいとお願いにいった時、三省さんは野の花の一輪挿しを見て「政美さんの中にも花がある」と言った。その一瞬で政美さんは自分と世界を隔ててあるものが無くなったように感じ、「祈り」の詩が曲を連れてきたそうだ。
 この日に話されたのはみな、大きな流れの中で、個々に出会い、祈り、夢見ていること。わたしは富士山に帰ってきてから、三省さんの本をゆっくり、噛み締めるように、でもむさぼるように読んでいる。三省さんのビジョン。これを身体でわかるところに立つことが難しいんだなって思う。でも立ちたい。カミであるすべての生物や机や鉛筆、あらゆる物たちとつながる大きな輪の中にわたしもいる。この世界をありようを自分の目で見るのだ。